2006年 12月 10日
雪と手袋 |
バージニア・バートンの絵本「ちいさいおうち」をはじめて読んだのはまだ山あいの田舎町に住んでいた頃のことだ。
5歳の私にお話の意味はわからなかったが、きれいな色彩で絵柄もとても可愛らしくて、大好きな絵本だった。
特に冬の場面は雪の結晶の美しさにとても心惹かれた。
「このきれいなものは何?」と母に質問し「雪の結晶よ」という答えが返って来たのを覚えている。
しかし母も「雪の結晶」をうまく説明することができなかったので、私は絵本の雪の結晶が実物大なのだと思い込んでいた。
冬にはその田舎町にも雪が降った。でも雪の結晶はとてもめずらしいものらしく、空から舞い落ちる雪はどれも絵本の雪の結晶の形には見えなかった。
雪が降り積もると、中庭で雪うさぎを作った。お菓子屋さんの中庭には南天の木も植えられていたので雪うさぎの材料には事欠かなかった。
私の手袋は赤い毛糸で編まれたもので、手の甲の部分には人形と花の小さな刺繍、それに雪の粒のような透きとおったビーズが縫い止められていた。
片方だけなくしてしまうことのないように手袋の両方は手袋と同じ赤い毛糸の長い紐でつながっていた。
雪が降り積もると、その素敵な手袋をはめて雪うさぎを作った。
雪うさぎを作ると、真っ赤な手袋に白い雪が砂糖をまぶしたようについた。
あの手袋はどこへいったのだろう。懐かしく思うようになって気がついたら、いつのまにか失ってしまっている。
たとえどこかで落としたりしなくたって、成長とともに用をなさなくなってしまうはずの子供用の手袋だもの、処分されてしまうのは当然のこと。
それにしても、失ったものはなんて魅力的なんだろう。
あの手袋を手に入れることはもう、永遠にできないのだ。
いや、そんなことはない。
あの手袋は、私の頭の中の「記憶箱」にちゃんとしまってある。
そして、ことあるごとにこうやって引っ張りだしては愛おしんでいるではないか。
宝物はほかにもある。
あの頃はわからなかった「ちいさいおうち」のお話としての美しさが思春期を過ぎるとわかるようになったこと。
これもやっぱり一生の宝物だ。
5歳の私にお話の意味はわからなかったが、きれいな色彩で絵柄もとても可愛らしくて、大好きな絵本だった。
特に冬の場面は雪の結晶の美しさにとても心惹かれた。
「このきれいなものは何?」と母に質問し「雪の結晶よ」という答えが返って来たのを覚えている。
しかし母も「雪の結晶」をうまく説明することができなかったので、私は絵本の雪の結晶が実物大なのだと思い込んでいた。
冬にはその田舎町にも雪が降った。でも雪の結晶はとてもめずらしいものらしく、空から舞い落ちる雪はどれも絵本の雪の結晶の形には見えなかった。
雪が降り積もると、中庭で雪うさぎを作った。お菓子屋さんの中庭には南天の木も植えられていたので雪うさぎの材料には事欠かなかった。
私の手袋は赤い毛糸で編まれたもので、手の甲の部分には人形と花の小さな刺繍、それに雪の粒のような透きとおったビーズが縫い止められていた。
片方だけなくしてしまうことのないように手袋の両方は手袋と同じ赤い毛糸の長い紐でつながっていた。
雪が降り積もると、その素敵な手袋をはめて雪うさぎを作った。
雪うさぎを作ると、真っ赤な手袋に白い雪が砂糖をまぶしたようについた。
あの手袋はどこへいったのだろう。懐かしく思うようになって気がついたら、いつのまにか失ってしまっている。
たとえどこかで落としたりしなくたって、成長とともに用をなさなくなってしまうはずの子供用の手袋だもの、処分されてしまうのは当然のこと。
それにしても、失ったものはなんて魅力的なんだろう。
あの手袋を手に入れることはもう、永遠にできないのだ。
いや、そんなことはない。
あの手袋は、私の頭の中の「記憶箱」にちゃんとしまってある。
そして、ことあるごとにこうやって引っ張りだしては愛おしんでいるではないか。
宝物はほかにもある。
あの頃はわからなかった「ちいさいおうち」のお話としての美しさが思春期を過ぎるとわかるようになったこと。
これもやっぱり一生の宝物だ。
by min_y
| 2006-12-10 00:39
| 記憶
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